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月の欠損・本質を表すディセンダント

 

個人の記録として残すために。

お時間ある方は、どうぞごゆっくりしていってください。

 

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私は沢山の人のホロスコープを読んできた。

古くから知る友人たちはもちろん、直接顔を合わせたこともない初めましての方、また、出生時間の分かる偉人や著名人など。

 

昨今、西洋占星術マドモアゼル愛さんによる「月の欠損」なるものが話題となり、肯定的、否定的、まさに両極端の反応を見せている。

私個人としては、とても面白いと思った。

そして、私の中にある、ある仮説の信憑性が増した気がした。

 

よく「月星座はプライベートの自分」「親しい人に見せる姿」といった形で説かれていることが多い。

マドモアゼル愛さんが唱える月の欠損で言われているとおり、月は不安定である。不安定である理由は、生まれ育った環境に強く影響を受けているからだ。

つまり、自分の世界観ではなく、親や他人からの影響を受けた世界観。

六歳くらいまでの、小さな世界から受けた影響。

 

基本的に私たち人間は、親などの養育者から教えを受けたとしてもイヤイヤ期や反抗期を経て、養育者の感覚とは別のあるがままの自分の感覚を優先し、自立していく流れがある。

ホロスコープに当てはめると、月からの脱却、月への執着を手放す、といった流れになるだろう。

 

月は、インナーチャイルドと重なる。

月自体、生まれ育った環境での学び、また、養育者(親など)との学びが大きい。

月というのは物理的にも反射して見えてくる(光る)素質があるように、月は個人の学びではなく対人ありきの学びであり、人間関係の第一ステージを表している。

 

つまり、月は個人的な星ではない。

そもそも個人を表す星ではないのだ。

もっと言えば、養育者の課題を反射して映しているのが月星座であり、ある意味では養育者に与えられたものである。

 

親子間の学びは、統一して愛だ。

子は愛されることを学び、親は愛することを学ぶ。

もし、子どもの月が蟹座にあるならば、親は潜在的に「真の母性」「心を通して見る」「感情に寄り添う」「共感する」「世間と比較するのではなく、身内意識で愛する」など、蟹座の要素を学ぶと決めていた。そのために、その子どもの月は蟹座にあるのだ。

もし、子どもの月が水瓶座にあるならば、親は潜在的に「対等に個性を理解する」「一人間として扱う」「自由を尊重する」「感情的ではなく理性的に話し合う」など、水瓶座の要素を学ぶと決めていた。そのために、その子どもの月は水瓶座にあるのだ。

 

そういった形で "愛し愛される" ための学びとして現れている月だからこそ、学びが昇華すればインナーチャイルドである月が満たされる仕組みになっている。

ある意味で月をもつ本人そのものは関係なく、両親、つまり他人との始まりを表す学びである。

 

本人が自身の月星座を意識するとするならば、やはり、自分の人生や自分の世界観を生きるために、月への執着を手放すこと。

「月は自分の世界ではない」と気づき、養育者からの自立を意味する。

 

月はインナーチャイルドと重なるため、幼少期にありのままの子どもでいられなかった人ほど、父性・母性へ未練がある人ほど、月星座(の成分)に執着する。

無条件の愛情に飢え、満たされていない場合、インナーチャイルドは暴走し、月星座が主張する。

そして、条件付きの愛に則って、愛欲しさに親の理想(月星座)を演じきって認められようとするのだ。許されようとするのだ。愛されようとするのだ。

 

本当は、月星座の自分を脱ぎ捨て、ありのままの自分を見せる。大切な存在に丸ごと受け止められて初めて心の安全基地ができ、安心感に包まれる。

そう、インナーチャイルドが癒される。

新しい世界へ。

与えられた世界ではない自分の世界を創り出す準備ができるのだ。

 

月は大衆性の要素もあるため、月で表現したものは大衆の心に訴えかけることができる。

そのため、思いの外の賞賛や支持を獲得する可能性も秘めている。

月の要素で成功した人がいると見えたり、実際にそう思っている人が少なくないのはその影響によるもの。

 

しかし、月で放たれている表現は未熟なインナーチャイルドによるもの。

ターゲットが大衆は大衆でも、彼らの未熟なインナーチャイルドが刺激されているため、依存関係で結ばれている。

対等で健全な自立心がある付き合いではなく、月特有の "癒されていない親子関係" が雛形になっているため、ファンは表現者に対して盲目になったり、崇めすぎたり、反射を利用しているので完全にコピーのように真似をしたり、己を失くして相手色に染まったりする。

どんなに表現者が「個性を大事に」と主張したとしても、その表現者のような雰囲気、言動、行動、好きなもの、嫌いなもの、すべてを見よう見まねで模範しながら、「個性を大事に」などと主張してしまうような、無意識に表現者のクローンが生まれるだけなのだ。

しかし、本人たちはあるがままの自分を生きてている、個性を大切にしている、と信じて疑わない。

依存先が親や養育者から他人に変わっただけで、依存心、インナーチャイルドは癒えていないのだ。

 

月のエネルギーで繋がっている関係性は、とても不安定である。

この縁の切れ目の特徴は、感謝が湧き起こるような美しくポジティブな別れよりも、失望が多い。

本当の意味で自立心が養われ、心の成長が伴ってきた頃に、ハッと目が覚める感覚があるだろう。

あの頃の小さな世界では神のように完璧だと思っていた養育者が、なんでもないただの人間だったことに気づいたときの絶望にも似ているかもしれない。

 

これまでは、弱さで繋がっていた。

これまでは、未熟さを支え合っていた。

 

しかし私たちの本質は、自分一人で立つことができる。

その上で、ありのままで対等に、適切な距離で、他人と共存することができる。

 

 

月の執着。

執着というくらいだから、「月星座は私であるに違いない」といった縛りや思い込みに支配されている。

まさに、癒着、執着、依存。

精神的には "恋は盲目" の状態に近く、月の自分に依存していればいるほど「違うなんてあり得ない。だってあの頃は、」「あの人が運命の人じゃないなんて、嘘よ」といった具合に、目先の情や過去に呑まれ、客観的に等身大の自分自身を見ることができない。

必要以上に握りしめて離さない、言葉通り、執着だ。

 

12星座の執着は様々である。

本質的なキーワードに対し、いざ「私にはない」と潔く手放してみると、今までのしかかっていた執着の分の重みが消えるので、ふわっと肩の荷がおり楽になるかもしれない。

"恋は盲目" の時期が終わり、自分の世界、実像が見えてくる。

 

 

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さて、月を手放したところで見えてくるのは、自分の「何」を、太陽の在りかたで輝かせるか。

 

月は活かしたり育てるものではないとしたら。

私は、その答えはディセンダントにあると思っている。

 

どうしてアセンダントではないかというと、アセンダントもまた、この世を円滑に生きるために後天的に編み出した処世術的な仮面要素があるからだ。

 

仮面で、なにを隠そうとしているのか。

仮面で、なにを傷つけないように守っているのか。

 

それは、ありのままの自分だ。

 

人間や動物、生命とは、恐怖を感じる際、本能的に身を守ろうと防衛心がはたらく。

昆虫が防衛から草木に溶け込んだ色に身体を変色させる進化を遂げたのも、きっとその一つだ。

本来、自由気ままで惰性的な猫が、警戒心や防衛心から、爪を出し、牙を出し、目をつりあげ睨みつけてくるのだってそう。

外猫を家猫に招き入れた人なら分かると思うのだが、顔つきも佇まいも、別猫のように変わってくる。

私たち生命は、恐怖を感じる際、本能的に正反対のものを出して身を守ろうとするのだ。

 

だからこそ、アセンダントという仮面の正反対、対極を見る。

ディセンダントには宝物が隠されている。

 

幼少期や思春期にディセンダントの要素・本質部分を否定されたり、そのあるがままの本質のせいで人間関係が上手くいかなかった経験がある人は少なくない。

その結果、殻に閉じこもり、心が傷つかないようにアセンダントの仮面を極めるか、月を満たそうと迷路に迷い込む。

 

健全で対等な親子関係を築いた人たちは、スムーズだ。

あるがままの自分であるディセンダントを肯定され、活かされ、その本質が太陽の在りかたで輝いている。

 

ホロスコープから見る自立とは、月(親)への執着を手放し、アセンダント(偽りの自分)の殻を破る。

 

アセンダントは、親しくない他人の前で適用するにはもってこいだからこそ、月のように捨てたり手放したりする必要はない。

ただ、愛する人、深く繋がっていきたいと願う人の前では、その殻を破る勇気が必要だ。